ドリームリリース 4月1日はApril Dream

スクールカウンセラーになりたい!

坪内 薫(かおるーん)

京都府

私はスクールカウンセラーになりたいですスクールカウンセラーになって、大人になる前の子供達に教育の場で自分を大切にする意味や方法、人と関わる方法と仕組みを伝えたいからです。そう思った最初のきっかけは、私自身が大人になりボディーセラピストとしての基礎を学んだ師匠の教えに感銘を受け「これ子供の頃に学校で教えて欲しかった」と強く感じたからです。みんな仲良く、相手を大切に、周りをよく見て、みんなに優しくと教わってきました。学校で本当の人との関わり方や自分の大切にする方法を教わったことはありません。次のきっかけは、スマートフォンやインターネットからの情報やオンラインというつながりが増えている中で、リアルでの安心安全な非日常空間を提供したいと思うことがあったからです。・ここに至るまでの私の時間を遡ります。子供の頃から私はずっと怒っていました。世界には敵しかいないと、誰も信じられないと、家族も私を守ってくれないと。なぜ自分は存在するのか、自分はなぜ生きているのか、生まれてきてしまったのはなぜかと責め続けていました。私は幼い頃から兄にいじめられていました。内容的には肉体と精神の虐待、助けを求めることもできず従うことしかできず、何をしても怒られ続け怯える日々に安心できる時間はありませんでした。寝ている時にストーブで熱したボールペンの先を顔に押し付けられ、叫んで起きた記憶は今でも鮮明に残っています。ただ歩いているだけで後ろから突き飛ばされ、ふたのあいた側溝の角に頭をぶつけ流血、病院で何針も縫った傷は今も額に残っています。こんなに辛い思いをしているのに忙しかった母は気づきませんでした。母親なのにとどれだけ尖った視線で睨みつけたかわかりません。家庭内でそのような状況でしたから、私の心は学校で爆発しました。どうしても好きになれない子に対し「果たし状」を出しました。待ち合わせ場所に来たのは大好きだった担任の先生、会議室で怒られることよりも先生に知られてしまったことがショックでした。先生はその夜、うちに来て母に事情を伝えました。その場に私はいませんでしたが震えていたことを覚えています。一緒にお風呂に入ろうと母に誘われ入り、頭を頭を洗っている私の横で湯船に浸かる母が涙を流していたのです。「なんでこうなってしまったんやろうな」溢れるように静かに流れ落ちる涙は、小学四年生の私にとってみてはいけないものを見たという感情でいっぱいになりました。「もうお母さんを泣かせてはいけない!」そう強く心に決め、その後自分の感情や不安を家族に見せることは無くなりました。部屋を出ると仮面をつけたようにいつも通り、期待されている私を演じました。パツパツの心をいつも助けてくれたのが、保健室の先生でした。放課後こそっと保健室に行くと、笑顔でというよりはフラットな感じで向かい入れ「箱庭やっていいよ」と誘ってくださるのです。私は箱庭が大好きでした。誰にも言えないことや自分の頭の中のイメージを表現しても、誰にも文句は言われず、できたことにも何も言われず、時折「それなぁに」と問われた時に熱い思いを語っていました。「これはここに川が流れててな、あっちの人とこっちの人の世界を分けてるねん。あっちの人はな・・・」こうやって話してる時が一番楽しかった。中学校に上がって友達はいましたが、兄の荒ぶりは家族全体に及んでいたので怯えながら震えながら見つからないようにコソコソ過ごしていたストレスがあり、保健室に行っていました。箱庭はありませんでしたが、保健室に行ける、受け入れてもらえる、話を聞いてもらえる、黙っていても許されるという空間が私を支えてくれました。高校受験に失敗し、人生初めての挫折で心はぐちゃぐちゃなのに、家族の前で泣けませんでした。何事もないふりをして部屋に行き、布団をかぶって何日も泣き続けました。高校に行って待っていたのはやっかみといじめ、毎日帰っては泣き、学校に行くのが嫌だと泣き、地獄でした。高校の保健室は今までのように開放されておらず、安らぐ場がなかった私が壊れるまでの時間は短かったです。どうしても周りに馴染むことができず、ふとしたきっかけで始めたダイエットが加速し摂食障害に。一人で歩くことができなくなるほど体重が落ち、入院するほどに。誰にも頼ることができないストレスを、自分の体をいじめることでバランスをとっていたんです。できない自分を叩いて罰を与える行為や自傷行為もしていました。なんとか学校を出て社会人になってからも、人間関係でうまくいかず体調を壊しやめて回復しては仕事をして、また体調を崩してやめてという繰り返し。どんどん悪化する心、心療内科でもらう薬は増え続け、寝ることさえも薬を飲まずにできない状態になりました。いろんな療法や先生を渡り歩き、出会った一人の先生のおかげで生きること、自分を大切にしないといけないということに気づかせてもらい日常生活ができるほど回復。結婚して順調に過ごしていましたが、子供が生まれてから地獄が戻ってきました。ママ友との関わり・お母さんにならないとという呪縛・社会と断絶された空間にいる恐怖。個人事業主として社会との関わりを持つようになってから世界と視野が広がり自分自身が落ち着いていきました。体を大切にすることは自分を大切にすることであり、自分を大切にできることは周りを大切にできることと同じで、自分にできないことは他人にできないという仕組みを学んでから開眼、スタート時のヒーリングや占い業務からボディーセラピストに大きく切り替えてから、人生の質が変わりました。仕事もうまく動き出したという時に、我が家は引っ越しをしました。小学3年生の2学期から転校した娘は、すでに出来上がったグループとうまくやっていくために自分を犠牲にするという方法を選択しました。何も言ってこない娘に、うまくやっているんだと思い込み真実に気づいてやれませんでした。5年生になって、家でも学校の係活動の作業をやり続ける娘に、自分の大切な折り紙を使っている状況に疑問を投げかけました。すると「本当はやりたくない、大事な折り紙もあげたくない、使いたくない」と泣き出しました。みんなにとっていい人であろうとすることを頑張り抜いた娘の糸が着れる音がした瞬間です。申し訳なかったと思うことよりも、この先に待っているのは私と同じ過去のしんどさだと感じ何かせねばと思いました。そこで娘や娘のような子たちにわかりやすく伝えられる人との関わり方や自分を大切にすることを伝える、冊子を作りました。娘にも「なんかあったら相談するね、私の気持ちを大切にする」と感想をもらえました。無料で希望者に配布したその冊子は「小学生にもわかる友達の作り方」というタイトルで、漫画で構成された中身はとてもわかりやすいと評判でした。(本当は児童館や学校でこの冊子持って話をしたいんだけどな)そう思いながらもどうやってそこに繋げていいかがわからないまま時が過ぎ、ただ娘のために頑張って作って配って終わった感じの不完全燃焼感が残ってしまいました。娘の状況をケアしながらも、中学校に上がるタイミングが来て事件が起きたのです。娘が愛してやまない大親友が違う学校に行ってしまうことを卒業目前で本人が知ったからです。それを知った娘は私に「もう友達作るの面倒やし、友達とかいらんし、これから一人で生きていくわ」と言い切りました。あかん、やばい。また危険なルートへと突き進もうとしていると感じた私は、何が自分にできるのか?こういう考えになってしまう子供を助けることはできないのか?と考えたのが2週間前です。その時に思い出されたのが、保健室の先生と箱庭でした。でももう保健室の先生に今からは時間的にも体力的にも無理だ。。。箱庭ならできるかもしれない、もっと話を引き出すためのチャイルドカウンセリングならできるかもしれない。そう思って調べていた時に、なぜ冊子を作った時に私は教育機関へ足を向けられなかったのかがわかったのです。看護師や養護教諭がなることが多い学校でのカウンセラー業務特別専門職としての肩書がないと、信憑生がないんだなということです。ただのボディーセラピストが何を生徒たちに話せるというのだ、何を伝えられるというのか?と自分で自分の殻を破ることができずに動けなかったことに気づきました。「じゃあちゃんと資格取れば胸張って話ができるやん!」と心理カウンセラーと箱庭療法士の資料を取り寄せているところです。実際どこまでできるかも、スクールカウンセラーとして活動できるかもわかりません。でも私は目の前の人が安心できる場を作ることができる身体の専門家です。相手の話を引き出し緩みと安心を広げることができるセラピストです。そこに未熟な私を救ってくれた箱庭を組み合わせることで、子供たちに安心と安全を伝えることがしていきたいです。箱庭は子供だけでなく年齢性別問わず心を癒しストレスを解消緩和するための療法です。子供たちに対して居場所を提供できたら、仕事を頑張っている4-50代の大人にも体験していただきたいと思っています。体と心を違和感なく矛盾なくバランスしていくことが私の人生の役割です。まず今は子供達のために頑張るということをスタートさせます。娘が中学の間に間に合うことを目標に、そして3年後中学生になる息子たちのためにも頑張ります。

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